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チャールズ・ジョン・ペダーセン(Charles John Pedersen、1904年10月3日 - 1989年10月26日)は、アメリカ合衆国の化学者。父はノルウェー人のブレーデ・ペーデシェン(Brede Pedersen)で、母は朝鮮で豆や蚕の貿易に携わっていた福岡県出身の日本人一家の娘・安井タキノ。自身も日本名として良男(よしお)という名を持っていた。 == 来歴・人物 == ノルウェー人の航海技師だった父が一時、釜山税関に勤務していたため、大日本帝国の保護国だった大韓帝国の慶尚南道東莱郡(現在は大韓民国釜山広域市に含まれる)で1904年(光武8年、明治37年)に生まれる。8歳まで朝鮮半島(1910年からは日本統治となる)で過ごした後、神奈川県横浜市にあるインターナショナルスクールのセント・ジョセフ・インターナショナル・カレッジに学んだ。化学を学ぶため、1922年にアメリカ合衆国へ渡り、(オハイオ州デイトン)で学位を得た後、マサチューセッツ工科大学(MIT)(マサチューセッツ州ケンブリッジ)で修士課程を修了した。 MITの教授らは大学に残り博士課程を修めるよう薦めたが、父から学資を受け続ける生活を嫌ったペダーセンは実務の世界に移った。この決断から数十年後にペダーセンはノーベル化学賞を受賞することとなるが、こうした経緯から、ノーベル化学賞受賞者の中では珍しい博士号を持たない人物ということになった。 1927年、デュポン社で研究員として働き始め、65歳で退職するまで42年間にわたって同社に勤務した。この間、25の論文と65の特許を残した。 1967年に発表された2本の論文では、クラウンエーテルと命名されたリング状の分子が安定した構造を持つ金属イオンなど電荷を持ったイオンを捕らえる性質を持つことを明らかにした。この発見は超分子化学研究の礎を築き、この論文は今日では化学論文の中でも最も偉大な論文のひとつとみなされている。この発見の後にこの分野の研究を深めたドナルド・クラム、ジャン=マリー・レーンとともに、1987年にノーベル化学賞を受賞した。 1983年に骨髄腫と診断され、この病のため体は急激に弱っていったが、1987年にはノーベル賞を受賞するため、病身に鞭打ちストックホルムまでの旅行を敢行した。 ノーベル賞受賞の2年後、1989年に死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チャールズ・ペダーセン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Charles J. Pedersen 」があります。 スポンサード リンク
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